2005年05月11日

〔社説〕時間に正確すぎる危険な日本――欧州式スローライフのすすめ

欧州でも報道された日本の尼崎脱線事故。事故後の調査によって、故・高見隆二郎運転士(享年23)が、時速126キロメートルの猛スピードで直線を突進し、カーブに差し掛かる直前に非常ブレーキを掛けるという、きわめて危険な運転を行っていたことが明らかになっている。

なぜ、このようなスタントマン的な運転が、安全第一としなければならない市民の輸送手段において起こってしまったのか? この点については、直前にオーバーランにより消費した時間を取り戻そうとして、運転士が無謀な運転を行ったのではないかという見方が有力となっている。

今回は、この事件をきっかけとして、「時間に正確すぎる危険」を検証し、日本にも「スローライフ」を取り入れてはどうかと提案してみたい。

議論の前提として、冒頭に提示した有力説が正しいと仮定すると、事故の原因は、究極的には、「人身の安全よりも時間の正確さを優先する価値的倒錯」に求められるだろう。

本来、鉄道の運営にあたっては、いかなる状況においても、人身の安全が最優先に考えられなければならないはずである。しかるに、運転士の間には、時間の遅れを危険な運転で取り戻す慣行が存在したと報道されている。つまり、運転士の間に、人身の安全よりも時間の正確さを優先してしまう考え方が存在していたことを意味する。当然、これは許されることではない。会社の管理体制も問われてしかるべきである。

そもそも、日本には、時間の正確さを尊重しすぎる風潮がある。このことは、欧州と比較してみるとよくわかる。

欧州の中では時間に正確だとされるドイツでも、電車の10分・20分遅れはざらである。1時間以上遅れることも結構ある。山を越えてイタリアに行くなら、交通機関など、所詮時間通り動かないものだと考えておいたほうがいい。しかし、それでも、社会はきちんと回っているのである。

なぜ、日本では1分や2分の微々たる時間を針小棒大に騒ぎ立てるのだろう。オーバーランで電車が数分遅れようと、大した問題ではないではないか。そんなことを気にせず、安全運転してくれたほうが余程ありがたい。

乗客にしても、交通機関に一分一秒の正確さを求めることは、間違っている。コンピュータでも、そのときの調子によって、速さが変わったりする。ましてや人間の動かすものなのだから、一分一秒の正確さを期待するほうが偏執狂的異常である。鉄道会社は、こんな異常な期待は相手にせず、しっかりと自分の筋を通して欲しい。

そもそも、日本では、幼いときから、時間に正確であることを必要以上に教え込む傾向がある。これは改める必要がある。以前、遅刻を取り締まる目的で校門を時間通りに閉じ、挟まれた生徒が圧死する事件が起こったが、この事件が象徴している通りである。

もちろん、「時間に正確であること」は、人のことを慮るという意味で美徳である。しかし、それ以上のものではない。時間に正確であろうとして、相手を殺してしまっては、相手を慮ることにならないのである。相手を殺してでも時間に正確であろうというのは、明らかに目的と手段を取り違えている。

つまり、「時間に正確であること」は美徳の一つ(「one of them」)ではあっても、すべての徳目に勝る美徳ではないのである。

ところで、欧州統合のプロセスを見ると、スローライフのヨーロッパが政治に反映されているようで、微笑ましい。彼らは、50年の歳月を掛けて、ここまで来たのである。停滞したこともあったし、後退したこともあった。しかし、現在の状況はどうだろうか。50年前に目標とした平和と経済成長を達成し、単一経済市場を構築し、更には冷戦を克服して、ヨーロッパ大陸は文字通り一つになろうとしているのである。

実は、欧州統合が現実化し始めてから、数年程度で現在のような政治統合にまで持っていこうという計画もあったのである。しかし、その試みは失敗した。それに、もしこの計画がうまくいってしまったとしたら、それこそ問題であったとも考えられる。なぜなら、当時のヨーロッパ大陸は冷戦構造に規定されており、西側のだけの統合となっていただろうからである。現在のように東ヨーロッパを包括した壮大なものにはなりえなかった。つまり、偉業には時間が必要なのである。

一度、欧州的時間感覚に身をおいて、自分の人生を点検してみてはいかがだろうか?