〔社説〕公的年金制度の理想的将来像――「国民皆年金」は廃止せよ
日本では、参議院選挙以来、公的年金制度が注目の的になっている。この問題が議論されること自体はよいことだが、どうも着眼点がおかしいように思われる。すなわち、現在話題となっているような、社会保険庁の過誤や不正にいかに対処すべきかとか、逼迫した財政状況に対処するための財源をどこに求めるかといった問題は、要するに対症療法的な問題であり、したがって本質的な問題ではない。むしろ、まずもって議論しなければならないのは、公的年金制度の将来像をどうすべきかという問題であろう。今回は、この観点から公的年金という制度について考察を加えてみたい。
そもそも公的年金というのは、経済学的に正当化されえない制度である。すなわち、ある財の効用が特定の人の私有に帰するのではなく、広く薄く公共に及ぶという場合(国防・外交・警察・教育・公衆衛生など)に、その財を公共財というが、この公共財については、他人の購入する公共財の効用にただ乗り(フリーライド)して済ませばよいということになるから(いわゆる外部不経済)、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)であれば、そのような財を積極的に購入する決断を行うことはない。したがって、市場メカニズムに任せると、誰も買い手がつかず、商売として成り立たないので誰も供給しないということになる。しかし、国防・外交・警察・教育・公衆衛生などというのは、皆にとって重要なインフラであり、そもそも経済というものが成り立つ前提であるから、これが供給されないと困る。そこで国家というものの出番となる。
「国家がなぜ必要か?」という議論にはホッブズ以来の伝統があるが、要するに国防・外交・警察・教育・公衆衛生といった公共財を国民に広く提供して経済のインフラを整備するとともに、その資金として税金を国民から強制的に徴収する、というところにその本質がある。防衛省・外務省・警察庁・文部科学省・厚生労働省・財務省といった役所が国の機関となっているのは、そういうわけである。
ところが、年金という財は、その効用が特定の人に帰属するから、公共財ではない。したがって、基本的に市場メカニズムに委ねてもよい種類のものである。したがって、公的年金という制度自体、経済学的に正当化することができないものである。郵便や通信などと同じく、社会保険庁を国の機関から切り離すことができるのはこのためである。つまり、経済的には、必ずしも国が提供しなければならないサービスというわけではない。
それでは、なぜ公的年金というものは存在するのか。これについては、歴史的観点から一応の説明をつけることができる。
すなわち、中世においては、身分的封建制の下、人と生産手段が結合した形で経済活動が営まれていた。そもそも、身分的封建制というのは、農家と農地を結合させて固定し、生産活動を行わせる制度である。この制度の下では、農家は、農地という生産手段を離れることができない代わりに、この生産手段を失うこともない。つまり、食いはぐれることはない。また、工業についても、当時は家内工業のレベルだったので、職人の家は、工具・技術といった生産手段を自ら保有していた。したがって、食いはぐれることはなかった。
ところが、産業革命が起こると、大量生産・大量消費の世の中になり、生産効率性を上げるため、人と生産手段の分離が進んだ。すなわち、炭鉱や工場といった生産手段を自ら所有する資本家と、このような生産手段をまったく所有しない労働者の二種類に分かれた。労働者というのは、要するに無産階級であるから、老齢になって生産性が下がり、炭鉱や工場から解雇されてしまえば、生産手段を完全に失ってしまうわけである。生産手段を完全に失うということは、食いはぐれるということである。
ここに、公的年金の存在理由がある。大量生産・大量消費の工業社会において、生産手段を失った老齢者が食いはぐれないようにするため、強制的に掛金を積み立てさせてそれを老後の生活のために支給する、という仕組みをつくった。これが、公的年金の制度である。
ところで、このような観点からすれば、そもそも資本家や自営業者といった人々は、工業社会においても自ら生産手段を有しているわけだから、年金など必要がないはずである。ここに、「国民皆年金」という制度のおかしさがある。つまり、このような人々まで年金に強制的に加入させられ、保険料が徴収されるというのはおかしいということである。実際、ドイツでは、この種の人々には概ね公的年金に加入する義務がない(もし必要ならば民間の年金に加入すればよい)。
さらに、時代は、情報処理技術の著しい発達を背景として、工業社会から知識社会へと移行しつつある。このため、現在では、人々が、かつてほど大きな資本を必要とすることなく、生産活動・商業活動を営めるようになった。日本では、2005年に会社法が改正されて最低資本金制度が撤廃されたが、これは旧来の工業社会の会社法を、知識社会の到来に適合させたということである。したがって、今後、生産手段を自ら所有する人々の数はますます増えていくだろう。このような流れは、国際的な潮流でもあり、今後とも、世界的に人と生産手段の再結合の流れは加速していくはずである。
このような流れに鑑みれば、そもそも、公的年金というものの存在理由もどんどん限定されたものとなっていくわけである。したがって、公的年金という制度は、今後基本的に縮小に向かっていく、というのが世界の歴史の流れによる宿命なのである。
以上のような、経済学的・歴史的認識に基づくと、具体的にはまず何をすべきだろうか。まずは年金加入義務を緩和して「国民皆年金」を廃止することこそが重要であろう。これを論じずして、社会保険庁の過誤・不正や財源について議論しても、余り本質的な解決には至らないものと思われる。
つまり、現在与野党がともに志向している、年金に対する信頼を回復させたり、財源を確保したりといった方向性は、単なる公的年金制度の延命措置に過ぎないから、方向として本来とるべき方向とは真逆のものである。そうではなく、今回年金に対する信頼が完膚なきまでに失墜したことをむしろ機縁として、公的年金制度自体を縮小していくのが筋であろう。そうしないと、根本的な解決にはならない。
